天皇賞(春)編
最終章:積分定数『\( +\alpha \)』の輝き、そして春の王の帰還《デブ猫競馬》
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「……っっ、スバルくーーん!! じゃなかった、クロワデュノールゥゥゥ!!」

月曜日の朝。神宮寺研究室のドアが乱暴に開け放たれ、若葉が歓喜の悲鳴とともに転がり込んできた。その手には、しわくちゃになった的中馬券が握りしめられている。

「若葉さん、声が大きいです。講義棟の端まで響いてますよ」
すでにコーヒーを淹れていた佐倉が、苦笑しながらたしなめた。

部屋の奥では、神宮寺教授がいつもと変わらぬ様子で、分厚い洋書のページをめくっていた。ただ一つ、黒板に書かれた \( CEL_{phys} \) の数式だけが、金曜日の熱を帯びたまま残されている。

「見ましたか教授! 昨日のレース! 最後の直線、完全にアニメの最終回でしたよ!」
若葉はタブレットを取り出し、昨日の天皇賞(春)のレース映像を再生した。

『さあ、最後の直線に入った! 内を突いて抜け出すのは昨年の覇者ヘデントール! しかし外から、漆黒の馬体が襲いかかる! クロワデュノールだ!』

「金曜日に教授が言っていた通りになりました」
佐倉が映像を見つめながら、静かに解説を始めた。
「道中、クロワデュノールは血のたぎりを抑えきれず、淀の第三コーナー――『見えざる手』の坂で、明らかな掛かりを見せました。教授の計算通り、あの時点で彼の肉体にかかる負荷 \( CEL_{phys} \) は限界を突破し、レッドゾーンに突入していたはずです」

「そう! 最後の直線に入った時、クロワデュノールの脚色が一瞬鈍ったんですよね」
若葉が息を呑んで画面を見つめる。
「内側から、スタミナを完璧に温存したヘデントールがスッと抜け出した。まるで、死に戻りのループで『完璧な最適解』を引いたスバル君みたいに、無駄のない完璧な軌道でした」

映像の中のヘデントールは、コースの最小半径 \( r \) をなぞるように走り、遠心力のロスを極限まで削ぎ落としていた。物理法則に則った、美しきステイヤーの走り。

「……だが。絶望の淵でこそ、真の『王選』は決着する」

画面の中、残り200メートル。物理的なスタミナが完全に尽き果てたはずのクロワデュノールが、突如として再加速を始めたのだ。

『クロワデュノール、もう一度伸びる! ヘデントールに並びかける!』

「ここです! ここで私、泣いちゃいました! 限界を超えてるはずなのに、さらに加速するなんて……。まるで、絶体絶命のピンチで新しい『権能』に目覚めた主人公じゃないですか!」

『クロワデュノールか、ヘデントールか! 意地と意地のぶつかり合い!……クロワデュノールだ! 黒い北の星が、春の淀を制圧しました!!』

映像がゴール板を駆け抜ける二頭の姿でストップする。研究室に、ふたたび静寂が戻った。

「見事なものだ」
教授はゆっくりと立ち上がり、黒板の前に歩み寄った。そして、チョークを手に取ると、数式の末尾にある『 \( +\alpha \) 』の文字を大きく丸で囲んだ。

\( CEL_{phys} = \int_{0}^{t} \left( \frac{m \cdot v(t)^2}{r(t)} \right) dt + \alpha \)

「佐倉くん。私のシミュレーションにおいて、クロワデュノールの肉体は淀の坂を下った時点で『物理的な死』を迎えていた。ヘデントールの勝利は、計算上は99パーセント揺るがないものだったはずだ。だが……」

「残りの1パーセント。定数『 \( +\alpha \) 』ですね」と佐倉。

「そうだ。質量と速度、そしてコース半径。それらすべてを積分し尽くしても、決して数式には収まらない『運命の不純物』。……クロワデュノールの血管を流れる、父キタサンブラックの血。あるいは、絶対に先頭を譲らないという、設計者すら制御し得ない初期衝動。競馬というシステムが、単なる物理法則の証明ツールに成り下がらない理由がここにある。我々は自らの意志でその鎖を断ち切るのだよ」

「教授……」若葉は、いつもは冷徹な教授の言葉に込められた熱に、少しだけ圧倒されていた。

「でも、教授のシミュレーション、最後は外れちゃいましたね。やっぱり競馬はデータじゃ割り切れないってことですか?」
若葉が少し意地悪く微笑むと、教授は「ふっ」と鼻で笑い、白衣のポケットから一枚の紙切れを取り出した。

「誰が外したと言ったね」

机の上に無造作に投げ出されたのは、京都11R・天皇賞(春)の馬券。
そこにはっきりと印字されていた。―― 【馬連】 クロワデュノール - ヘデントール

「えええええっ!? 教授、ちゃっかり両方買ってるじゃないですか!!」

「論理の果てにたどり着いた『最適解』ヘデントールと、計算を破壊する『 \( +\alpha \) 』のクロワデュノール。この二頭の激突は火を見るより明らかだった。ならば、その両方の可能性(ルート)を担保しておくのが、真のシミュレーターというものだろう?」

「うわー、大人ってずるい! スバル君みたいな純粋さが足りないですよ!」
「ふん。純粋さで馬券が当たるなら、誰も苦労はしないさ」

五月の眩しい陽光が研究室に差し込み、黒板の数式と、はしゃぐ若葉、そして微かに口角を上げる教授を照らし出す。

「さあ、余韻に浸っている暇はないぞ。次の舞台は、すべてのホースマンの夢が帰結する場所……府中の2400メートルだ。若葉くん、佐倉くん。新たなデータ(絶望)を構築する準備はいいかね?」

『神宮寺教授の秘密講義』――次なるシミュレーションの幕が開く。